【コラム_05】東日本大震災から8年が経過しました。


東日本大震災が発生してから8年が経過した。
いまだ避難生活を余儀なくされている方も多くいらっしゃる。
震災後2ヶ月目に書いた文章を改めて、自分自身にその時の気持ちを忘れないようにここに再掲することにしました。
マグネチュード9.0という観測史上最大の地震が発生して早くも2ヶ月が過ぎました。
当初は目の前にあったはずの町が津波によって一瞬にして瓦礫の山と化し、日常生活を奪いさる映像を目の当たりにして、為す術もない人間の無力さにただ呆然とするばかりでした。しかし時間の経過とともに復旧から復興へと気持ちがシフトしてきている被災地の様子をニュースで見ていると逆に勇気づけられる思いです。
気象庁によれば5月6日15時現在、これまでに発生した余震は、M7.0以上は5回(7.77.57.47.17.0)、M6.0以上は76回、M5.0以上は444回です。また、最大震度4以上を観測した余震は140回ということです。過去におきた他の地震に比べ余震の多さは桁違いで、まだ今後も大きな余震が起きる可能性もゼロではない状況にあります。日本がいくら地震国とはいえ、これほどの回数の地震は未経験で、過去の同規模の地震からすれば最大余震は本震―1程度の規模が多いといわれていて、今回もまだ安心していれる状況にないので注意が必要です。

地震発生時、自分はちょうど外を歩いていた最中で、建物から人があわててたくさん出てきたので一瞬何が起こったのか分かりませんでした。ところが目の前のペンシルビルが隣のビルにぶつかるくらい揺れ、ガラスが音を立て今にも割れそうな勢いだったので、すぐその場を離れ、広い通りにでました。すると中高層のビルも大きく揺れていて、これはただ事ではないとその時感じました。自分でも意外と落ち着いていたのですが、もしこれが建物の中や高層ビル、地下やエレベーター、電車の中などであったらどうだっただろうか、と思うとあまり想像したくはないけれど、パニクっていたかもしれません。
今考えると外を歩いている最中は、揺れに対しては鈍感だったのが幸いして落ち着いていれたのかもしれません。家に戻ってみると意外と物が落ちていなかったので安心しましたが、テレビの画面に映し出された映像からはその事の深刻さに目を奪われ、報道している側の緊迫感が画面を通じて伝わってきました。
今回の地震で自分の周辺では大きな被害はありませんでしたが、瓦屋根の棟が崩れていたり、ビルの外壁が少し落ちていたり、万年塀が倒壊していたのを目にしました。ただよく行く公園にある沼の周辺は大きく陥没し、地割れが見られました。また一部かかっている木橋のところはうねっていたりして立ち入り禁止になっている部分があり、いまだにその状態は続いています。

設計を職業としている以上、地震によって建物が崩壊して人命が失われるというのはいたたまれません。しかしこれほどの巨大地震にも係わらず、木造住宅自体の損傷は思ったよりも大きくなかったのは、「キラーパルス」といわれる木造住宅に被害をもたらす周期1秒前後の揺れが少なく、0.11秒の短い波がほとんどだったからだといわれています。
ところが結果的にその後の津波による被害が甚大なものになってしまいました。津波は高さ1mで厚さ6mmの鉄板を曲げるといわれ、2mになると木造住宅を破壊するといわれています。今回の津波はそれ以上の高さで、木造住宅がいとも簡単に流されて行く映像には衝撃を受けました。

他にも浦安や久喜、我孫子で起こった液状化による住宅被害は深刻です。建物自体は壊れなくとも地面が隆起し、マンホールが浮き上がりライフラインが破壊され、建物がちょっとでも傾けば、三半規管がおかしくなって健康被害も出てくるので日常生活を送れなくなってしまいます。この状況にあって国もようやく重い腰を上げ、液状化による被害の補償の幅を広げました。
地震被害といっても揺れ方や地盤条件、また立地条件によってさまざまです。これは今回の地震の被害が局地的なものではなく、広範囲に渡っているためで、それぞれの自治体によって被害状況が異なるため、地域に合った防災対策の再検討が求められるでしょう。

そして何よりも今回気になった被災地の一つに福島県の新地町があります。
自分のルーツをたどる旅で新地町を訪れたのは2008年の10月末のことでした。
朝6時に電車に乗って新地町に着いたのが9時。とても長閑な場所で随分遠くまで来たなぁという印象でした。
当日、案内いただいた諏訪神社の宮司さんの無事も確認できホッとしましたが、他の地域に比べあまり報道されず情報として多くは入ってこなかったので、少ないニュースの映像からかろうじてそこが新地町の駅だったということくらいしか分からないものでした。



新地町を訪れた目的は駅からすぐのところにある観海堂という建物の見学でした。
この建物は福島県内で最初に設立された共立の小学校で、その前身は郷士黒澤清之進宅として使われていたものです。4代さかのぼった高祖父母がこの新地町出身であることが戸籍からわかっており、黒澤清之進と兄弟であったのでは?ということが、訪問するきっかけになりました。(つまり先祖が生まれ育った住宅が今も残っている?)そのときは高祖父母が住んでいたと思われる屋敷跡地を案内してもらいましたが、結局は残っている資料も少なく、調査時間もなかったことから、確たる証拠を掴めないまま新地町を後にしました。
また機会を見つけて訪れようと思っていたので、まさかそれが結果的に観海堂を見る最後となってしまうとはその時は思いもしませんでした。実際にGoogle mapで確認してみると建物は跡形もなく、かろうじて基礎部分がその建物が建っていた痕跡を残しているのみでした。
今回の地震を通じて感じたことは、いくら備えをしていても、場所、季節や時間帯、年齢、健康状態などどういう状況下で被災するかによって対応も対策も違ってくるということです。いろいろなケースを想定しながらも、落ち着いて冷静に判断することは必要だと思うし、防災意識が高まっている今こそ、まずは個々人での防災対策を考え、それを定期的に見直して行く事が大切だと思います。

1000年に1度の確率で起きるといってもそれが今日、明日起こらないとも限りません。ハードを過信し過ぎる防災対策は不十分であることは明らかだし、ハードとソフト両面からの防災対策が必要になります。そしてやはり人と人のつながりが一番大切だと今回感じました。
阪神淡路大震災以降、自助・共助・公助の相互関係が防災対策の基本だとされてきました。人は支え合って生活して行く以外生きて行けません。今回「想定外」という言葉が頻繁に使われましたが、想定外を想定した対策であってはまた同じ事を繰り返すだけではないかと思うし、柔軟に物事を考えて臨機応変な対策をおこなっていってほしいと思います。

もう一つ今回の地震によって浮き彫りになったのはエネルギー問題です。今もなお継続している原発問題は、大きな課題として次世代エネルギーをどうするかを真剣に考えて行かなくてはいけない問題です。日本人は、このままのライフスタイルを続けるのが良いのか、これを期に見直して、あらたなジャパン・スタイルのライフスタイルをつくるのがよいのか判断しなくてはいけない岐路に立っています。しかしすぐに変わる事は難しいし、生活をして行くための電気依存はしばらく変わらないから、どこからそのエネルギーを得るかということが課題になってきます。太陽光、風力、バイオマス、地熱など様々な技術が開発されてきてはいますが、普及レベルにはもう少し時間がかかりそうです。ただ将来的には自家発電システムと蓄電技術によって、家庭の消費エネルギーは家庭で創る時代になるだろうし、もしかしたらそう遠くないのかもしれません。そう思いたいです。

最後に被災地の復興には時間がかかると思いますが、その地域に合った町とコミュニティは必ず元に戻ると信じて、今回被災された皆様の1日も早い復旧と復興を願うばかりです。
そしてまた落ちついたら、新地町をはじめ、東北地方を訪れてみたいと思います。

このブログの人気の投稿

【展覧会レポート_02】子どものための建築と空間展

【ご挨拶】謹賀新年2021

【歳時記_04】清明 2019